[PR]看護師の好条件求人なら:転職のプロがあなたをサポート!求人多数

居合道指南

霞居合会
当会は、故・麻田信治十段範士が、昭和45年堺市に、錬信館道場を開設され、
無双直伝英信流の指導にあたられました。
昭和50年には、会の名称を錬信会と改め、日本居合道連盟の旗揚げに参加され、
多数の門下生の育成にあたってこられました。
麻田師範は、平成10年、志半ばにして世を去さられましたが、
高弟が意志を引き継いで現代も指導にあたっております。


居合道指南
1.居合とは
居合と言うと、目にも止まらぬ抜打ちで敵を切り倒す不気味な技と言うイメ−ジが有るようです。
或いは、座頭市を思い浮かべる人もあるかも知れません。もちろん人目を奪う様な早業が
居合の全てでは有りませんが、
ある意味では、この印象が当たっております。
居合の生命は抜きつけの一瞬にあると言われます。
刀を抜き、構えてから切るのではなく、刀を抜く動作が即ち敵の命を絶つ必殺の一撃となるのが、
居合の神髄なのです。

2.居合の発祥
私たちが『刀』と呼んでいる優美な反りを持った日本刀が生まれたのは、平安時代の中頃の事です。
後の鎌倉時代に大いに発達しました。
この頃は、騎馬線戦が主だったので、刀長が80センチを超える長大な刀も多く、

            太刀
馬上で抜き易い様に、腰のあたりに吊り下げて
着用しました。
太刀が長く続きましたが、応仁」の乱をきっかけに全国に戦乱が及び、
屋内での暗殺や市中での闘争が常の事となり
太刀とは別に60センチ前後の短い刀を護身用として携行する事が多くなりました。
襲われた時、素早く抜打ちが出来るように、反りを深く造ってあります。
こういった刀を、打刀と呼びます。

          打刀
居合の基本となる抜打ちの技法が生まれたのは、この時代だとされています。
           
          太刀を抜こうとする武士(一遍上人絵伝)
3.居合道の始まり
室町時代の末期、いわゆる戦国時代になると、太刀はほとんど廃れてしまい、
打刀と脇差しの2本を帯に差すのが武士の日常の姿になりました。
この打刀による抜き打ちを武道として完成させたのが、
林崎甚助重信です。
天文11年{1542}、出羽国林崎村{山形県村山市}に生まれた甚助は、
仇打ちの為に刀術を究めようと志し、厳しい稽古を積みました。
願をかけて林崎明神に参籠し、満願の日に夢の中で神に会い、
抜刀の極意を授けられたと伝えられています。
仇打ちを果たした後は、自らの刀術を流儀として門人たちに伝えました。
この流儀を林崎流、重信流あるいは神夢想流と称します。

4.居合道の諸流派
林崎流の門下からは、多くの名人が巣立ちました。
田宮流を開いた
田宮平兵衛重正、無楽流の長野無楽斎
伯耆流の
片山伯耆守久安などです。
なかでも、江戸時代の中期に林崎流の7代を継いだ
長谷川主税助英信は、流祖以来の達人と言われ、
古伝の形を時代の形に合わせて改良し、
故郷の土佐に帰って、これを伝えました。
この新しい流派を『
長谷川英信流』と呼びます。

5.無双直伝英信流
その後、英信流は土佐藩士の間で、代々伝えられてきました。
しかし、明治維新後の廃刀令によって、居合道は、
衰退の途をたどり始めました。
この難しい時代に17代を継承した
大江正路は、それまで口伝でまちまちに伝えられていた技を整理して、初伝11本、中伝10本、奥伝21本にまとめました。
また、流派の名前も
『無双直伝英信流』に統一し、現代の居合道の基礎を築いたのです。
しかし、維新よりも更に大きな試練が、居合道の世界を襲います。
第二次世界大戦の敗戦と、それに伴う日本刀の没収、武道の禁止によって、居合道は、
その命を殆ど絶たれたかに見えました。
英信流の復活を賭けて、正統第20代宗家に指名された
河野百錬は、よく人々の期待に応え、
昭和29年に全日本居合道連盟の結成に漕ぎつけると、
初代理事長に 就任しました。
数多くの著作を遺し、中でも「
大日本居合道図譜」は、今でも英信流のバイブルとして大切に読み継がれています。

 霞居合会報 入会案内


[PR][無料]足し算引き算で分かる:電卓で気になるあの人も恋人の相性も診断